ネイティブアメリカンの歴史年表

コロンブス後のネイティブアメリカンの歴史年表
クリストファー・コロンブスが降り立ちアメリカ大陸と呼ばれるようになる何年も前に、この広い大地にはネイティブアメリカンが住んでいました。 16世紀から17世紀にかけて多くの探検家が土地を植民地化しようとするようになり、ネイティブアメリカンの反応は、協力的なものから怒り、暴動へと、段階を経て変わっていきました。
「フレンチ・インディアン戦争」(1755-1763)と呼ばれるイギリス領アメリカ対ヌーベルフランスの戦いで、ネイティブアメリカンの部族はフランス人と同盟を結び戦います。最終的にアンドリュー・ジャクソン大統領の「インディアン強制移住法」に基づいて強制的に自分たちの土地から追放された後、19世紀の終わりまでにネイティブアメリカンの人口は大幅に減少し、居住地域も縮小されました。
以下の記述は、ヨーロッパ人到着後のネイティブアメリカンの激動の歴史を形作る出来事の記録です。
1492年:クリストファー・コロンブスが3か月の船旅の後、カリブ海の島に上陸した。最初は東インド諸島に到着したと信じており、出会った先住民を「インディアン」(インド人)と呼んでいる。そして到着1日目に、6人の先住民を捕まえ使用人として働かせる。
1513年4月:スペインの探検家フアン・ポンセ・デ・レオンが北米大陸フロリダ州に上陸し、ネイティブアメリカンと接触する。
1521年2月:ポンセ・デ・レオンは、サンファンからフロリダへ再び航海に出て、植民地化を始めた。着陸から数か月後、ポンセ・デ・レオンは地元のネイティブアメリカンに攻撃され、致命傷を負った。
1539年5月:スペインの探検家で征服者のエルナンド・デ・ソトがフロリダに上陸し、この地域を征服した。彼は途中でインディアンを捉え、ガイドをさせて南部を探索している。
1540年10月:デ・ソトとスペイン人たちは、遠征中のマビラでネイティブアメリカンに攻撃された。デ・ソトは攻撃をかわして進軍し、都市に火を放った。結果、数百人のネイティブアメリカンが死亡した。(マビラの虐殺)
1595年:ポウハタン酋長の娘、ポカホンタスが生まれる。
1607年:ポカホンタスの兄弟がジェームズタウンの植民地からジョン・スミス船長を誘拐。スミスは後に、ポウハタン首長に脅された後、ポカホンタスに救われたと書いている。(この話は歴史家によって異なる説がある。)
1613年:ポカホンタスは第1次アングロ・ポウハタン戦争でサミュエル・アーガール船長に捕らえられる。監禁中に、彼女は英語を学び、キリスト教に改宗し、「レベッカ」という名前を与えられた。
1622年:ポウハタン連邦がジェームズタウンの植民地をほぼ一掃する。
1680年:ニューメキシコでのプエブロの反乱が、スペインによるニューメキシコ支配を脅かす。
1754年:フレンチ・インディアンの戦争が始まり、フランスとネイティブアメリカンは北のイギリス人入植者たちと戦うことになる。
1756年5月15日:イギリスとフランスの7年戦争が始まり、ネイティブアメリカンはフランスと同盟を組んで支援した。
1763年5月7日:オタワのオブワンディヤグ(ポンティアック)酋長が指揮し、デトロイトでイギリス軍と戦った。イギリスは7月31日にデトロイトでオブワンディヤグの戦士たちに報復する(ブラッディ・ランの戦い)。オブワンディヤグとその一行はそれらをうまくかわすことができたが、双方に犠牲者を出した。
1785年:ホープウェル条約がジョージア州で署名され、米国とチェロキー族の間に取り決めがなされた。またチェロキー族の土地の境界線が決められた。
1788/89年:サカガウィアが生まれる。
1791年:ホルストン条約に署名。これにより、チェロキー族は以前取り決められた境界線の外側にあった全ての土地を放棄する。
1794年8月20日:アメリカ独立戦争後に起きたアメリカ先住民と米国間の戦いの中でも最後の大きな戦いとなったフォールン・ティンバーズの戦いが北西部領土で始まり、アメリカが勝利する。
1804年11月2日:ネイティブアメリカンのサカガウィアは、妊娠6か月の時に、ルイジアナ買収の領土を探索中であった探検家のメリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークに出会う。そしてこの探検家たちによって翻訳者としての利用価値を見出される。
1805年4月7日:サカガウィアは、赤ちゃんと夫のトゥーサン・シャルボノーとともに、ルイスとクラークの旅に加わった。
1811年11月:米軍がインディアン戦争のリーダー的存在であったテカムセとその弟のララウェティカ(またはテンスクワタワ)を襲撃し、ティッペカヌー川とウォバシュ川の合流地点にあった彼らの集落が破壊された。
1812年6月18日:ジェームズ・マディソン大統領がイギリスに対する宣戦布告に署名し、米英戦争が勃発。ネイティブアメリカンの代理戦争となり、フランスと共にこの植民地争いに巻き込まれた。
1814年3月27日:ホースシューベンドの戦いで、アメリカ軍の拡大と領土の侵攻に反対したクリークインディアンを、アンドリュージャクソン(当時州市民軍大佐)と米軍およびアメリカ先住民の同盟国が攻撃した。クリーク族は、戦いの敗北後、2000万エーカー以上の土地を割譲した。
1830年5月28日:アンドリュージャクソン大統領は、インディアン強制移住法に署名し、ミシシッピ川の西側の土地をネイティブアメリカンの部族に与え、引き換えにそれまでの居住地を没収した。
1836年:インディアン強制移住法の一環で、クリーク族の最後のネイティブアメリカンが土地を出てオクラホマに向かった。オクラホマへ向かった15,000人のうち、3,500人以上が途中で亡くなった。
1838年:ジョージア州の土地を出てミシシッピ川を渡ったチェロキー人がわずか2,000人だったので、マーティンヴァン・ビューレン大統領はウィンフィールド・スコット将軍に指揮を取らせ7,000人の米兵に協力させ、チェロキー族に銃を突きつけて17,000人に1,200マイル行進させた。旅の結果、5,000人を超えるチェロキー人が亡くなった。一連のネイティブアメリカン部族の再配置と旅の間の彼らの困難と死は、「涙の旅路」として知られている。
1851年:議会がインディアン歳出法を可決し、インディアン留保地システムを構築。ネイティブアメリカンは、許可なしに保留地を離れることは許されなかった。
1860年10月:アパッチ族のグループが白人を攻撃して誘拐し、その結果、米軍はチリカワ・アパッチ族のリーダーであるコーチーズ(コチーズ)を誤って非難した。コーチーズとアパッチ族はその後10年間に渡って白人アメリカ人への襲撃を行った。
1864年11月29日:コロラド州の650人のボランティア軍がサンドクリーク沿いのシャイアン族とアラパホー族の野営地を襲撃し、150人以上のネイティブアメリカンを殺害した。これは「サンドクリークの虐殺」と呼ばれている。
1873年:ラコタ・スー族のクレイジー・ホースがジョージ・アームストロング・カスター将軍に初めて遭遇する。
1874年:サウスダコタ州のスー族の土地であるブラックヒルズで金が発見され、米軍が条約を無視して侵入する。
1876年6月25日:「カスターの最後の砦」としても知られるリトルビッグホーンの戦い。ジョージ・カスター中佐の部隊が、リトルビッグホーン川沿いのクレイジー・ホースとシッティング・ブル率いるラコタ・スー族とシャイアン族と戦った。カスターとその部隊が殺害され、ネイティブアメリカンと白人アメリカ人の間の緊張が高まった。
1879年10月6日:ペンシルバニア州のカーライル・インディアン工業学校に最初の生徒が入った。南北戦争の退役軍人であるリチャード・ヘンリー・プラットによって創設された、ネイティブアメリカンの子供たちを同化させるための全寮制の学校である。
1887年2月8日:グローバー・クリーブランド大統領がドーズ法に署名し、インディアン部族に割り当てられていた土地を個人に対する割り当て地として分割する権限を持つようになる。
1890年12月15日:サウスダコタ州グランド川そばでインディアン警察との対決中にシッティング・ブルが殺害された。
1890年12月29日:サウスダコタ州のウーンデッド・ニー川の近くでビッグフット首長に率いられ(ていると白人は誤解していた)ゴーストダンスを踊っていたネイティブアメリカンたちを米軍が取り囲み、武器の引き渡しを要求した。このウーンデッド・ニーの虐殺で推定150人のネイティブアメリカンが殺され、25人のアメリカ騎兵隊員が死亡した。
1907年1月29日:チャールズ・カーティスがネイティブアメリカン初の米国上院議員になる。
1924年6月2日:米国議会が「インディアン市民権法」を可決し、米国の領土内で生まれた全てのネイティブアメリカンに市民権を付与すると決めた。それまでは、その人のネイティブアメリカンとしての遺伝的割合、退役軍人であるか、女性の場合は米国市民と結婚しているか、など条件によって市民権は制限されていた。
1929年3月4日:チャールズ・カーティスがハーバート・フーヴァー大統領のもとでネイティブアメリカンとしては初の副大統領を務めた。
1968年4月11日:インディアン公民権法がリンドンB.ジョンソン大統領によって署名され、権利章典を含む多くの権利がネイティブアメリカンの部族に付与された。
(情報元:History.com Editors, Native American History Timeline, HISTORY, A&E Television Networks, April 30, 2020)
(Photo:Chief Wolf Robe in Public Domain)